フッサールの現象学(本質主義/直観主義)

フッサールの現象学の原理的特徴として、本質主義と直観主義が指摘される。

フッサールにおける本質主義は、事実的な経験や体験に対して、本質や理念(イデア)、また形相(エイドス)などに優位を置く考えのことであるが、これは諸学の基礎づけという現象学の厳密学としての目的に起因している。数学や論理学などを、主観的かつ経験的なものへと還元しようとする心理学主義や生物学主義に対して、フッサールはむしろそのような学が、そしてまたあらゆる学が、その厳密性の条件としてイデア的な論理法則の存在を必要としていることを指摘し、これらの究極的な規則がもし存在しないのであれば、厳密学はおろかわれわれの認識の妥当性をたもつものはなにもなくなってしまい、相対主義や懐疑主義に陥ってしまうことへ注意をうながした。さらには、そのような相対主義的な考えが妥当性をたもつためには、みずからが主張している相対主義的な考え自体を否定しなければならない逆説をフッサールは指摘した。そして、意識をその具体的な相関者との関係ではなく、意識とその相関者との相関関係自体、すなわち志向性という本質的なありかたにおいて捉えようとするところにもまた、現象学の本質主義的な性質があらわれている。しかし、フッサールは論理法則や思考の規則のイデア的な本質の存在を認めるという点ではたしかにボルツァーノやフレーゲと同じく論理学的イデア主義の立場にあるが、それらのイデアの素朴な実体化を避けるという点では、プラトン的実念論ではない[9]。さらに発生的現象学にいたって、本質の地平性とその受動的な構成が問われることとなり、ここにフッサール以降の現象学が展開していった事実性の現象学の萌芽がみられる。

もうひとつの特徴である直観主義は、直観(独:Anschauung)によって現象をあるがままに捉え、その本質を認識しようとする現象学の方法的態度のことである。この態度は、フッサールの研究格率である「事象そのものへ」に表明されている、一切の理論的先入見を捨て去り事象そのものへの還帰を目指すという現象学の本質的な特徴をあらわすものでもある。それゆえ現象学は、およそあらゆる理論からの演繹的展開を拒み、記述と分析という帰納的な態度をとることになる。フッサールの現象学がいくたびかの深刻な転回を経るのも、この帰納的かつ根源的な態度によって、みずからの仕事への現象学的反省を強いられたからである。その点で、直観はフッサールにおける現象学のもっとも枢要な概念ということができる。上記のように本質は学の成立のためには必要不可欠な存在であるが、その本質はいかにして認識しうるか、という認識作用の主観性と認識内容の客観性への問いが、この現象学的直観というもっとも根源的な認識方法への還帰を必要としたといえる。フッサールもいうように「すべての原的に与える働きをする直観こそは、認識の正当性の源泉である」[11]ので、直観とは、ただの感覚や感性的直観のことではなく、対象それ自体が現に意識に与えられ、充実された志向のことである。フッサールにおいては意味とは形相的あるいは理念的なものであるが、この意味にのみ関わり、対象への関係が実現されていない意識の働きのことを空虚な意味志向や空虚な意味作用などと呼ぶ。この空虚な志向を充実してくれるのが対象の直観であり、単なる思念としての対象への関係が対象の直観と同一化されることによって顕示化されることであるが、そのことがまた、意味志向が基づけられるという表現によってあらわされることもある。この対象自体がみずからを意識へと与えるありかたのことを自体能与(あるいは自体所与)といい、自体能与を志向性においてとらえて明証(独:Evidenz)ともいわれる。明証にはさまざまな程度があり、それに応じて必当然的や十全的などの分類がなされるが、本質的には「存在するものとその様態とについての経験」であり、程度はさまざまであれすべての経験が明証性を持っているということができる。

たとえば眼前に林檎をありありと想像するような志向と、現にいま眼前に林檎を知覚している充実された志向では、その林檎という対象へと向かう志向の充実の度合いにおいて、後者のほうが明証的である。しかしもちろんこれは林檎という対象への志向が、知覚という直観によって充実されたということであり、眼前にある林檎という超越的なものの現実的な存在をそのまま証明するものではない。つまりこの現にいま与えられた感覚与件が、志向性において意味把握的に統握され活性化され、そのかぎりでこの林檎という対象が与えられた。そして、この志向された対象が対象そのものとして現在的かつ直接に意識へあらわれることこそが、対象の明証的な自体能与である。だがこのような明証的な知覚も、その対象すべてがありありと十全的にあらわれているわけではなく、いまだ知覚されていない部分を持っている点や、想起や想像などの準現在的な直観と関係している点において、完全に明証的といえるわけではない。もし対象の現実的な存在の証拠である十全的かつ完全な明証が与えられるとすれば、それは内在的な直観によるものであり、外的知覚つまり超越的な直観によってそれが与えられることはなく、超越的な対象の現実的な存在の定立はその可能性が他の可能性に比して高い場合になされるという蓋然的なものにとどまる。

しかしまた、われわれの認識の妥当性は根源的には明証を与える直観によってしかたしかめることができず、それゆえに明証的直観こそが「一切の諸原理の原理」といわれ、その明証性の妥当性すらも、反省的な明証的直観によって誤りを正していくことでしか証明することができない[18]。そして、現象学の深化とともに、この明証や直観という概念、つまり理性の視作用そのものが、フッサールにとって主題的に解明されるべきものとなっていく。この理性の究明こそが発生的現象学であり、そこでは直観の直接性よりも地平の媒介性が優位を占めるようになっていく。このようにフッサールは単なる直観主義から脱却していくが、それでもなおフッサールは直観と反省という現象学の立場を堅持し、そこには事象そのものをありのままに捉えようとする現象学の本質的な志向がみられる。また、明証は真理と相関的な概念であるが、イデアの素朴な実体化を避ける現象学は真理それ自体を一挙に手に入れることはできず、ただ直観によって近づいていくことしかできないとされる。しかし、十分に明証的な直観はどれほど反復されても不変であるからこそ、フッサールによって「真理の体験」とも呼ばれる。

また、フッサールとその現象学の本質主義(本質と事実の関係)については、フッサール以降の現象学の展開において、さまざまな議論や立場が生まれている。ハイデガーは存在を本質存在と事実存在のふたつに分かつことから西洋の存在論、そして形而上学が始まったとしており、このふたつが分かたれる以前の始原の存在へと近づくことが必要である、と説いている。メルロ=ポンティは、われわれの事実性を認識しまた克服するための相対化に本質性の領野が必要とされ、本質は目的ではなく手段である、と述べている。

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